女と生まれて・その人生観 座右の銘8

おはようございます。今週は私、吉開が担当します。議員活動、家事、思春期女子高生2人の子育て(時々、孫の子守)などで、朝?昼?それとも夜中?いつやれるかわかりませんが、毎日更新に挑戦します。

私は、「座右の銘 」第1章 人生を最高に生きるために 9女と生まれて・その人生観 より選んだものを掲載します。

 

「私の生涯の物語を作り上げているのは、私のお友達であることがお分かりでしょう。思えば数えきれぬほどたくさんの方法で、この人々は私の欠陥を、かえって美しい特権に変え、私の眼と耳の損失が醸し出す闇と沈黙の谷の陰を、心静かに幸福に歩ませてくださるのであります。」ヘレン・ケラー

 人はそれぞれ欠陥があるけれど、よいところ、できることを引き出して伸ばしていくことで人生が変わるってことですよね。

 

  • 1880年6月27日、アメリカ合衆国のアラバマ州タスカンビアで誕生。父のアーサー・ケラーはスイスから移住したドイツ系の地主の息子で彼の母は南軍の総司令官、ロバート・E・リーとはまたいとこの関係にあり、彼もまた南北戦争時は南軍大尉だったドイツ系アメリカ人であった。母のケイト・アダムス・ケラーも父のチャールズ・アダムスが南軍の准将であり、両親ともに南部の名家の出身である。兄弟は異母兄が2人、のちに同母妹を持つ。
  • 1882年、2歳(生後19か月)のときに高熱にかかり、医師と家族の懸命な治療によりかろうじて一命はとりとめたものの、聴力、視力、言葉を失い話すことさえできなくなった。このことから、両親からしつけを受けることの出来ない状態となり、非常にわがままに育ってしまった。
  • 1887年、彼女の両親は聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、彼の紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同学校を優秀な成績で卒業した当時20歳のアン・サリバン(通称アニー)であった。アン・サリバンは、小さい頃から弱視であったため(手術をして当時はもう見えていた)自分の経験を生かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンは、諦めかけられていた「話す」ことができるようになった。彼女はその後約50年にもわたってよき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる。